あしたのあしたのまたあした。

 コンコン、とドアをノックする音が病室に響いた。
 今日は、これで何度目だろう。
 哉太は、枕に寄りかかり直しながら、ざっと今日を、ここ数日を思い出した。
 手術が迫ってくるにつれて、哉太の元を訪れる人が増えた。親戚、昔馴染、同じクラスの仲間。結構遠くに住んでいるのに、顔を見に来てくれた人もいた。久しぶりに会った人も、何人もいた。短い時間でも会いに来てくれて、話をしたり、冗談を言い合ったりできたことは、本当に嬉しかったし、楽しかった。
 けれど。
 もしかしたら最後になるかもしれない。だから、来てくれたのかもしれない。
 心のどこかでそう思ってしまう自分がいるのが、ものすごく嫌だった。
「どうぞー」
 哉太の返事に、ドアが滑らかに開く。
「今日は調子よさそうだな」
「お、錫也か」
 悪いな、と言う哉太に、全然、と錫也は笑った。
 錫也がお見舞いに来てくれている時、哉太は余計なことを考えないで済む。それは錫也が何度も足を運んでくれているからなのか、はたまた昔から近くにいることが当たり前だからなのかは分からない。しかし、沢山の術前検査や診察に追われ、また数え切れない不安に囲まれた今の生活の中で、貴重な心休まる時間だった。
「これ、陽日先生から頼まれたプリント類」
 錫也は鞄の中から分厚めの封筒を出して哉太に渡す。受け取りながら、哉太は露骨に嫌な顔をした。
「直獅センセ、容赦なさすぎ…前回もらったの、確か五日前くらいだったろ…」
「陽日先生が全部の教科の先生に頼んで、今までの授業のノート代わりになるプリントを全部作ってもらってるみたいなんだ。今ここに入ってるのは、内容的には先週分くらいまでだって」
「じゃあまだ同じようなのが二つも三つもくるのか!? マジかよ…」
「まあ、一応俺たちの本業は勉強だからな。分かんないところは教えるから。あと…」
 あまりのプリントの山に落ち込む哉太に、錫也はもうひとつ、ビニール袋を差し出す。
「これは俺から差し入れ」
 差し出された袋からうっすら見えたのは、毎週哉太が楽しみにしている週刊誌。
「おおお!! 週刊少年スタスカ!! 確か今週の発売日明日じゃなかったか!?」
「たまたまスーパーに行ったらフラゲ出来たんだ。それ、最後の一冊」
「さすがオカン!! GJ!!」
「オカンだから買えたって訳じゃないだろうけど、哉太が喜んでくれて良かったよ」
 哉太のテンションは、つい数分前が嘘のようだ。そんな様子を見て、錫也は安心したように微笑んだ。
「そういえば、今日は髪の毛、セットしてないんだな」
 ふと気付いた錫也が、哉太が髪を下ろしてるのなんて久しぶりだ、と呟く。
「あー、うん。もう術前にワックス落とす機会が無いからな。それに」
 もらった封筒や雑誌を目の前のベッドテーブルに置いた後、少し切なそうに笑いながら、哉太は言った。
「いろんなものがありすぎて、自由に動けないんだ」
 哉太の白い左腕からは、太目の点滴チューブが伸びていて、そこには大きな輸液バッグが機械を経由するように点滴台からぶら下がっている。病衣の胸の辺りから伸びる様々な色のコードは心電図計に伸びていて、哉太の心臓がきちんと仕事をしていることを波形にして証明していた。その他にも沢山のコードがあちこちに繋がっていて、ベッドの上から移動することはとても困難なようだった。
「トイレだって自分の好きなように行けないんだぜ?誰かの助けを借りて、邪魔な物をわざわざ引っ張って移動しなきゃいけない。一回ベッドの上で出来るようにしようか、って言われたけど、流石にそれは断った」
「…そうか」
「あ、別に気にすんなよ。めちゃくちゃ不便だけど、だからっつって自分のプライドがー、なんてことは全然ないし、まあ他の奴ができない貴重な体験してるかな、って。それも明日で終わりだけどな」
 明日で終わり。
 その言葉が、なんだか静かに響いた。
 明日、哉太は手術を受ける。成功率は五割。どうなるかは、全く予想がつかない。
 ほぼ18年、哉太の体の中で目一杯まで頑張ってきた心臓に、果たしてもうひと踏ん張りする力は残っているのだろうか。
 もちろん、錫也も、月子も、羊も、哉太に関わる全ての人が、哉太と再び元通り笑いあえる日を待ち望んでいる。何より、哉太自身がその生活を一番望んでいる。それを痛いほど分かっているからこそ、五割、という数字が本来持っている意味よりも重く、哉太たちにのしかかっていた。
「明日か…。いよいよ、だな」
 錫也の言葉に、ああ、と哉太が頷く。
「なあ、錫也、俺が入院して最初に錫也が来てくれた時に、俺が話したこと、覚えてるか」
 ほんの少しの沈黙のあと、哉太が言った。錫也はその時のことを思い出しながら、ゆっくりと頷く。
「もちろん。あの時も、ちょうどこの位の時間だったっけ」